社会復帰してしばらく経った。これという辛さもないし、かと言って何も目新しさはない。人生ということを考えないことにした。今を生きていればそれで楽しい。
今年は香港とか台湾とか久々にいろんなところに仕事で行けそう。去年はバタバタして国外出張に行けなかった。もっと仕事したい。

東京にいたぼくは中学2年生だった。期末試験が終わり、部活で駄弁ろうとしたら最後の課題を家に置いてきたことに気づき、午前中の最後の試験が終わってから1度家に課題を取りに戻った。当時は電車通学だったから片道小1時間ぐらいかけて、数学の課題を提出してから、生徒会に間借りしてた生徒会室という名の部室に行って、そのまま一息つくことなく大きい揺れが来た。最初は揺れに気づかず、後輩が校庭のネットがめちゃくちゃ揺れてる!って騒いだ途端に、大きな揺れを感じた。松葉杖をついて歩けない先輩を、もう1人の先輩がふざけながら机の下に押しやった。そしたら高校生だった生徒会長の先輩が、笑い事じゃねえ!って言って、生徒会長と2人で松葉杖をつく先輩の肩を支えながら、3階から校庭まで避難した。その日の夜はそのまま帰ることもできずに、暖房の壊れた教室で寝泊まりをした。建て替えて一年足らずの校舎にヒビが入っていた。一瞬だけ見たテレビは、台場が燃えてる映像が流れた。何かのドラマか映画かと思った。
翌日家に帰って、テレビでは東北は絶望的というセンセーショナルなテロップが流れた。ほどなくして輪番停電が始まった。何故だかうちは電気が止まらなかったが、何かと混乱してたんだろう。半年後に学校のボランティアで陸前高田市に行った時、これが絶望的かと思った。恐ろしさを感じた。
写真はそれから2年後ぐらいに、辞めた中高一貫校の部室に顔を出した時に撮られた写真だと思う。少なくとも東京は、2年も経つころには何事もない平穏が戻っていた。あえて毎年3月11日という日を省みてこなかった。津波の映像は今でこそ冷静になって見れるが、そこに至るまでは10数年とかかった。あの恐ろしい日からもう15年も経った。何を以て被災者というかわからないけど、自分はあの日の出来事は忘れたくても忘れられないんだろうなと思った。
ぼくの父は料理というものに並々ならぬこだわりがある。小さい頃はパスタを食べるとなったら、生地から作ってパスタマシンで麺を作って。当時はスーパーやデパ地下に連れられることもあったから、乾麺の存在は知っていたがあれは別の食べ物だと思っていた。
父の実家は所謂中流階級ぐらい、祖父もまた大阪の中流階級ぐらいの育ちだと話を聞く限り思う。生まれた頃は戦中で、甘いものは贅沢で食事も満足に取れなかったと言っていた。祖母も同じく大阪の育ちだが、多分お嬢さま家庭だったんだと思う。2人とも食事に対するこだわりが強いのは、戦中生まれだからだろうか。まだ存命だがそれなりに高齢になった今でも、わざわざひいきのフレンチレストランに行っているようだ。
そんな育ちのぼくは、あまり食事にこだわりがない。
小さい頃は教育方針だったのか、カップラーメンは年1の地元の祭りで子ども神輿を担いだ時にもらえたカップヌードルだけだったし、ファミレスも中学までまともにいったことがなく、初めていったサイゼリアのドリンクバーで感動したのは今でも覚えている。
今となってはカップ麺も好きに食べるし、牛丼屋もファミレスもファストフードも食べる。できれば普段の食事は手早く安く楽に食べられることが良い。
フレンチも祖父母や親に連れられて行った記憶はあるんだけど、コース料理とかテーブルマナーとかそういうのが苦手で自分で行きたいとは思わなかった。回らない寿司屋も天敵、仕事柄接待で連れて行ってもらったり連れて行ったりはするが、自分で行きたいと思うことはない。
さっきカフェで妻の書庫から取り出した土井善晴先生の本を読んで、苦手だったフレンチに少し興味が出てきた。フレンチとかの客が気取った感じとかもう嫌なのだが、そうではなく料理そのものに相対して、料理を味わえば良いのだと。
食事は生きるため、腹を満たすためとしか考えていなかったが、少しだけ世界観が変わったようが気がする。
入院経緯などopera-two.hateblo.jp
1/29(木)
明日出るという実感がわかない。朝から眠くて頭が回っていない。外に出たがる他患が増えてきたように感じる。楽しみがなく、歌いながら病棟内を歩き回る高齢の患者、みていないが2-3人ぐらいかな。何か健康的なものを感じる。他方、商店街に酒を買いに行きたいと声をかけてくる他患もいる。かけられる言葉がない。
この2週間がうんと長く感じた。考えれば、退院日を決めた先週からさらに1週間経っているが、気持ち的にはそこから1ヶ月は経っている気がする。
その間も仕事は回っている、世の中は動いている。あたりまえだけど、自分はいてもいなくてもこの世は回っている。回るようにできている。仮に時の総理大臣だとしても、代わりが出てくる。なんとか回そうと他の誰かが考えて回すのだから。だったらもう少し自分の人生を楽しんだほうが得なのだ。自分がやりたいと思ったことに熱量を使えば良い。
新卒の頃は、社会の役に立つ人間になりたいと会社を選んだ。会社はそれなりに大きい会社だったけどめちゃくちゃだった。身を粉にして働いた実感はあった。でも今は違う、小さい会社だけどちゃんとしている。自分が少し休んでもちゃんと回るし、大きな問題はない。家もどうにかなっている、妻が家をケアしてくれている。
だからマインドセットを入れ替えて、プライドを捨てなきゃならない。
--
最後の昼を食べた、オムライスが出てきた。献立を数日前に見たとら、お誕生日会メニューと書いてあったが、誰かの誕生日を祝うような感じでもなかった。別の病棟なのだろうか。一緒に出てきたポタージュが妙にコンソメ味が強くて、学生時代を思い出した。毎日のようにコンソメスープにオートミールを入れて腹を満たしていたあの頃に。
思い返せば、あの頃のほうがよっぽど長いトンネルの中にいた気がする。
毎日の講義はほとんど休まず行き、必死に板書を取り、レポートを永遠とつくり、来る日も来る日もその連続だった。聞ける相手はそういなかったし、プレゼンの練習やら打ち合わせやらもあった。他方、今はトンネルの中ではなく、もやがかった高原の中で道に迷っているという表現が正しいのかもしれない。ひとまずは明日から自由の身になれる。山小屋を見つけた気分、あるいは霧が少し晴れて山小屋から一歩歩みを始める気分。どちらでもよいが、とにもかくにも長くて鬱屈だったこの2週間もようやく終わることができる。
--
最後の外出に行ってきた、明日は娑婆に出る日。喫煙所でよく会った同病棟の他患に明日で退院すると告げると「おめでとう」と言われた。何を話したか忘れてしまったが、みな外に出るはシャバに出ると同じような感覚で話しているように思えた。一つ耳に残っていることは、人間関係はここでも外でも大変だねえと言われたこと。
私は他患と深く話すことはなかったので知らなかったが、病棟に入っている患者の中には経済的に困窮している人も多いらしく、金だとか物の貸し借りとかで揉めるらしい。
最終日にして、初日に担当看護師のTさんに「他患とはあまり話さないほうがいい」と言われた言葉の意味を答え合わせした気分である。
Tさんに明日会うかわからなかったので、軽くあいさつをした。ご苦労さまでした、入院大変だったと思うから、またここに戻ってこないように頑張ってくださいねと言われた。彼の教えを守れるようにしたい、願わくばここで過ごす時間は人生でこの1回きりにしたい。
外は寒々としている、昨日セブンで買った最後のおやつを食べながら明日は何を食べようかと思考を巡らせている。廊下から歌い声が聞こえてくる。小さい頃に祖父母の家に暫く滞在していたときのことを思い出す。今年ももう1ヶ月が終わろうとしている。西島は17時になろうとしているのに、まだ陽が落ちていないようだ。最後の夕飯を待って、そろそろ身の回りのものを整理しようと思う。帰りは1人だからゆっくりしてもよかったが、昼は頼まなかったので午前中のうちに家に帰らねばならない。
今日は主治医に会えなかった。薬とかのことを確認することをすっかり忘れていた。明日どこかのタイミングで話をしなければ。
--
最後の夕食は鯵の冷製のやつ、名前がパッと浮かばなかった。
普通の病棟に入院したことはないが、ここの食事は総じておいしいと思う。別に味が薄いわけでもなく、白飯も減らしてもらっていたぐらいだから、それだけ量も十分だった。
本当に、明日の朝荷物をまとめてここからでるという実感が湧かない。
いつもの寝る時間までの暇つぶしに悩む入院生活と何一つ変わることはない。夜がたばこが吸えないのが少し辛いが、禁煙パイポが最後残っているからそれを吸い切ってしまおう。
何かに苦しみながら毎日を送っている、もちろん全員がそうではないけども、社会の歯車から外されていることを許されている今、また元いた位置に戻ることはできるのだろうか。昼に書いたことと矛盾しているが、歯車の一員として回る以上は砕け散る前に外してもらうか、それなりでもいいから動き続けるかの二択しかないと考えているので、身の振り方、力の入れ方含め考えていかなければならない。
自由時間も終わった、あとはただひたすら寝る時間を待つだけ。
やっと、やっと終わるんだな。実感はない。
--
最終日の夜もやることがなく時間潰しに苦戦する。
片付けという片付けもしていないが、思いのほか持ってきているものが多く、一回で持って帰り切るのだろうかと不安が残る。仕事が少し不安になり先輩に連絡したがなんとかなっているらしいからよかった。早く睡眠薬がほしい。
1/30(金)
昨日はなかなか寝付けなかった、最後の日が待ち遠しかったのか、23時過ぎまで起きていたように思う。朝食を食べてあらかた片付けを済ませたが、やはりというか思った以上に荷物が多い。カバン・リュックを預けているはずだが、それを早く受け取りたい。
終
これが投稿されるときには、おそらくモラトリアムも終盤にさしかかっているだろう。
入院中にやることがなくて、とにかく何か時間を潰そうとペンとノートを買って色々書いていたが、こんなに長くなると思ってなかった。
いつかまた自分が怪我とか病気で入院することになったら、入院前の心の準備のためにこれを残しておきたいと思う。
Hsiao-Jen.
経緯とかはここopera-two.hateblo.jp
1/27(火)
朝からとても眠い、外にでるが億劫で、少し遅めにたばこ。外出て貧血を起こすかと思った。頭がぼうっとする。
つい会社のメールを見てしまった。仕事に早く戻らないと、自分の会社での居場所がなくなってしまうのではないかという危機感に曝され、途中で見るのをやめた。自分をただ追い込むだけだ。
そろそろ昼に呼ばれる、もし主治医と話す時間があれば、少し相談しようと思う。叱られそうだけど。
--
クライマーズ・ハイ、妻から読み応えがあるよと差し入れてもらって最後まで手をつけていなかった。私は元来活字を避けてきた節があり、読み応えがあるという薦めは少し気が重く、結局後回しにしてしまった。上越線の土合駅とみて、すぐあの地下深くにある駅か、一回は行きたいものだなと思ってそのまま3分の2読んでしまった。本の世界に引き込んでくる独特の感じは一体なんだろう。十数年ぶりになんとも言い難い達成感?あるいは満足感のようなものを感じた。
--
残り100ページぐらい、このまま読み切ってしまう勢いだが、ここでの生活はあと2日残っている。今日はここらへんにしよう。
ふと何故入院することになったかを考えてみた。途中色々なことを考えてみたが、結局のところキッカケは、自分の体調が悪かったのだろう。確かに希死念慮はあったような気がするし、手をかけてうまくいかなかった。紆余曲折あり入院した。
今でも入院するほどひどかったかわからないけど、気持ちの整理はだいぶついたし、半分あきらめのようなものがある。療養の結果、自分が変わったのかというとそれはイマイチわからないけども。日記を見返すに怒りのようなものがトーンダウンしているから、きっと効果はあったのだろう。多分、会社での居場所とかそういう焦りがあり、それはいまでも変わらないのだけども、それも2週間そこら経ってきて、あきらめに変わってきた。
もう起きてしまったことなので仕方がない。自分にそう言い聞かせ、今はひとときのモラトリアムを存分に味わう。自分にとって必要なことなんだと納得させる他ない。
1/28(水)
朝起きて、たばこを吸ってからどうもぼうっとする。
フラフラした感じが抜けず、昼を食べたらよくなるかと考えたがあまり変わらなかった。外が寒かっただろうからか。
隣室が変わったと思ってたが、近くの部屋からの引越しだった。 2人部屋を自分1人で使っているが、いよいよ最後まで1人で過ごすことになりそう。主治医が気を回してくれているのだろうか。陽が出ている、シャワーを浴びたらまた外に行こう。
このふらつきはなんだろうか、頭が動いていないだけなのか。とかくあと2日と少々で外に出れる、出た後のことを少し考えすぎなのか、シャワー浴びてさっぱりしたい。
--
シャワーをあびてぼうっとしていた意識から解き放たれた。外は日が暖かく、でもただ無意味に煙草を吸った。クライマーズ・ハイを読み切った。ことにノンフィクションしか読まない自分に何か新しい世界をくれた気がする。ものがきに憧れることがたまにある、別に、お金にならなくても。
でも、この本に圧倒されてしまった。圧倒という言葉以上の言葉で表現できない。
--
夜、もう少し本を残しておけばよかったと後悔。実質あと1日だからとたかを括っていた。今日の夜、明日の夕方をどう過ごそうとか、もうそんなことも一切考えず、ただひたすらここから出れる悦びに酔いすぎていた。今日はあと30分すれば睡眠薬がくるから良い。明日をどう過ごすのか。それより重要なのは明後日以降、シャバに放り出されたときに、自分がどのように生きていくのか。それを考えなければ。また同じように長い長いトンネルの中に迷い込むだろう。
--
入院中にノートを使い切ると思っていたが、そんなことはなかった。
振り返ってみればこの2週間、少なくとも心情変化を見る限り、療養に効果があったと思いたい。会社のA先輩に何も役に立たない助言をした。プライドは傷つけてもいいけど、メンタルは傷入れるとめんどうくさい。でもその通りだなって、いくらプライド積んでも結局できっこないことはできないし、自分が食うダメージもでかい。最初から保身に走るのはよくないとわかっているが、無理だなってときに無理をしない大人になりたい。その後で必死に挽回できる大人になりたい。
Hsiao-Jen.
経緯とかはここに
1/24(土)
朝から眠気が止まらない。朝食たべて二度寝してしまい、10時ごろに目が醒める。たばこに行くが風が吹き荒れていて冷たい。土日って考えたら少し気を緩めてゆっくり楽しんでみるのも良いかなと思う。ここで過ごす土・日も2回目にして最後だから。
思っていたとおり、体重が増えていた。歩く距離も減っているし、仕方のないことだが少し体を動かす時間もほしい。
とりあえず、新しい本の差し入れが来ているのでそれが楽しみ。ゆっくりする土日、穏やかに過ごせる土日を目標に頑張りすぎない。
--
差し入れの本がたくさんくてほくほく、パートのインド系の子が何人かいるんだけど、1人帽子をかぶっていた、イスラムとかヒンドゥーとかのやつだと思うけど、ラマダン的な週なのだろうか。外は相変わらず寒い、ゆっくりする1日。
1/25(日)
朝、相変わらずとても眠い。昨日差し入れてもらった溝口敦の本が楽しくて、寝るまでずっと読んでいた。私が唯一活好きというか積極的にお金を出して読む本、続きをまた読もう。選択回さねばだがランドリーが混雑している。退院までの終わりが見えてきて、気持ち晴れやかである。
--
気づけば夜、聞くところによると明日も寒いらしい。
この3日間は主治医に会っていないので、おそらく明日はどこかで面談するだろう。この2-3日は喫煙所で他患に話しかけられるようになった。話ぶりはぎこちないが、おそらく50半ばぐらいでやたら台湾に詳しい。曰く本人なのか兄弟だかが仕事で台湾にいたとかなんとか。また別の人は40年東京にいたとか。世間はせまいねえなんて話をした。
--
暫し雑誌を読み耽っていたら、就寝前の薬がきた。思えばこの週末は、外にいるときほどではないにせよ、それでもあっという間のような感じであった。先週と今週のたった2日の週末で、外界からしたら大した時間ではなかったのだろうけど、自分には長く苦しい1週間だった。またいつこうなる日が来るかわからないけども、願わくば隔離された病棟に入院することは2度としたくない。そう心に誓うことにした。
この期に及んで外が騒がしい。もう21時過ぎるのだから、少しは静かにしてほしい。
廊下を見たら、認知症が進んだ高齢の患者が騒いでいるようだ。めずらしくT看護師が夜勤だが、その人の相手をしている。見るに半数ぐらいは認知症ぽい症状での入院をしているようで、よく部屋に間違って入ってきたりする。本人が悪いとかもうそういうレベルの話ではないが、何より自分の老後が憚られるばかり。
1/26(月)
昨夜は寝入ってから、夢のなかで急激な眩暈を起こす。22時前にフラフラになりながら洗面所に行き、もう一度寝たが夢の中でぐるぐるしたままだった。朝もねむく朝食に遅れそうになる。そういえば、朝の薬を飲んだ記憶がない。
薄着で外に出たら寒い、少し室内で運動しようと思う。
--
夕方、外から戻ってきて筋トレしていたら昨日できた部位が超絶痛い。日頃の運動不足を感じる。主治医との面談のことをすっかり忘れていた。
退院日は予定通りでよいとのこと。ここもあと4日と少し、もうだいぶ暇をつぶすことに疲れたので、外に出れることだけを考えたい。
これが予約投稿されるときには、きっとまた西の島に帰ってきてるんだろうな。
Hsiao-Jen.